小田嶋隆のコラム道タイトル

第五回 モチベーションこそ才能なり
状況を説明する。
 私はモチベーションを喪失していたのではない。
 私が見失っていたのはモメント(きっかけ)であってモラール(士気)ではない。
 最初の〆切をフラっと踏み越えてしまったというそのちょっとしたつまづきが、良心的な書き手たるオダジマをして3ヶ月におよぶ停滞に至らしめた、とそう思っていただきたい。
 その間——つまり、何も書かずにいたこの3ヶ月間——私は意欲を失っていたのではない。やる気はあった。覇気も持っていた。義務感に至っては、むしろ月日を経るに従って亢進してさえいた。罪悪感もだ。のど元までこみ上げていた。実際、吐きそうだった。
 にもかかわらず、この三月の間、私はただの一行も当欄のための文字をタイプしなかった。それも、「モチベーションについて書く」と、前回のテキストの末尾で予告を打った、その、モチベーションの保ち方についての論考を、である。
 何が足りなかったのだろうか?
 モチベーション?
 まさか。

 かように、モチベーションは、非常に扱いにくい精神作用だ。
 というのも、モチベーションを鼓舞しようとする努力それ自体が、モチベーションを損なう落とし穴として機能しがちだからだ。
 子供の頃に親に向かって言ったことがないだろうか。
「いまやろうと思ってたのに。そうやってすぐにアタマごなしに『勉強しろ』っていうから、やる気がなくなるんだよ」
 とかなんとか。

 やる気は、「出す」ものではない。「出る」ものだ。
 その意味で、無理矢理出したものは、やる気ではない。
 ということはつまり、やる気は、「出てくる」のを待つしかないものなのだろうか?
 ……答えが、このテキストの中で見つかれば良いのだが。
 私自身、知りたいし。
 
 誤解して貰っては困るのだが、私は、モチベーションをコントロールすることの難しさを強調する意図で、執筆を先延ばしにしていたわけではない。私は、持って回った小細工をする男ではない。時に、まわりくどい弁解を持ち出すことはあるにしても、「弁解のための状況証拠を作るためにあらかじめ下準備をしておく」といったような、そこまで七面倒くさいことはしない。そんなことをするぐらいなら、さっさと原稿を書く方が簡単だから。

 モチベーションについて考えるというそのことが、自然なモチベーションの発露を妨げた可能性はある。
 卒業式の演壇に向かって歩く生徒が、「歩き方」を意識したとたんに、自然な歩行法を忘れて、右足と右手を同時に前に出す機械仕掛けの動作に陥ってしまうのと同じで……とか、過ぎたことをぐだぐだ言っても仕方が無い、と、〆切の遷延を「過ぎたこと」として規定してしまえば、この話は自動的におしまいになる。さらば書かれなかった日々よ。めでたしめでたし。

 通常モードの書き出しに戻る。
 なぜ私は、モチベーションについて書こうと思ったのか。まずは、そこから書き始める。

 当初、私は「才能」について書くつもりだった。
 結論としては、「才能は錯覚だぞ」という方向に落着するカタチで。
 というのも、「才能」という考えほど若い人々を毒しているものはないと思ったからだ。

 才能は、結果として、良い原稿を生み出したということから逆算される架空の財産みたいなものだ。あるいは株式市場における「含み益」と似ているかもしれない。換金しない限りにおいて利益と見なされる蜃気楼みたいな財産としての含み益。幻想だよ。

 文筆方面の話で言うなら、誰かが良い原稿を書くと、その人間に、「文才」が仮定される。そういうことになっている。
 逆ではない。
 誰かが誰かの中に「文才」を発見し、その文才のありそうな人間に文章を書かせてみると、ほーら案の定「才能」のある人間は才気溢れる文章を書くぞ、と、そういうふうに話が進むわけではない。
「このコは文才のありそうな顔をしているぞ」
 とか
「お、さそり座O型なら、文才は有望だぞ」
 とか、そういう展開にはならない。とにかく、文章を書いてみないと話ははじまらない。
 
 文章は、誰もが毎日使っている「言葉」というツールを操る技巧であるだけに、そもそも素人と玄人の間に決定的な力量差は生じない。
 大根の桂剥き(かつらむき)だとか、パイプオルガンの演奏みたいな分野では、素人と玄人の力量差は、絶望的に大きい。包丁を握ったことの無い人間から見れば、職業的な庖丁人が身につけている技巧は、魔法と呼ぶにふさわしい水準の何かに見える。
 が、文章の世界では、プロとアマチュアの間にたいした径庭があるわけではない。
 仮に志賀直哉先生の名文とそこいらへんの高校生のメールの文章を比べてみたところで、せいぜいが95点と75点ぐらいの違いしかない。その差、点数にして、20点。読む人によっては、評価が逆転するかもしれない。志賀ちゃんの文章って、なんか勢いないよね、とか言われて。

 また、「文才」は、「訓練前の段階で垣間見せた圧倒的な資質の高さ」みたいな神話とも無縁だ。
 たとえば、音楽やテニスの世界では、「モーツァルトは、はじめてピアノに触った時既に、耳で聴いたすべての音を鍵盤上から再現することができた」とか、「5歳の時にはじめたラケットを振った○○のスイングを見て、コーチ歴20年の○○氏は、言葉を失った」だとかいったみたいな、天才誕生エピソードが、各所で、まことしやかに語り継がれている。
 が、文筆の世界では、そういうビギナーズミラクルは、原理的に発生し得ない。
 言葉は、それほど万人にとっての普遍的なツールであり、思考の前提だからだ。
 つまり、こと文筆の世界に限って言うなら、「才能」は支配的な要素ではないということだ。あくまでも観察の結果、説明的に付加される、後付けの勘定項目に過ぎない。

 それでもなお、人々は、美しい歌を歌う人間には、歌の才能が宿っているというふうに、何かの結果を「才能の物語」として描写することを好む。特に、若い人たちは、その種の「傑出した才能」のエピソードに、ロマンチシズムを感じるように条件づけられている。
 が、実際のところ、才能という形のある実体が歌を生産しているわけではない。美しい歌を歌う人間の中に、世間が勝手に「歌の才能」を仮定しているだけの話だ。
 美しい歌は、訓練を積んだ人間が、経験と技巧を凝らした結果として生まれている。当たり前の話だが。

 世間の基準では、一度でも良い文章を書いたことのある人間は、その時点で「才能」があるというふうに仮定される。
 そこまでは良い。
 では、次の機会に彼が文章を書いた時に、その文章が不出来だったとする。
 この場合、どう考えるべきなのだろう。
 彼の才能は「ニセモノ」だったのだろうか。
 彼は才能を「喪失」したのだろうか? あるいは彼の才能は「枯渇」したのであろうか。
 それとも、彼は、突発的に良い文章を書く才能は持っていても、持続的に良質な原稿を生産し続けるタイプの才能を持っていなかったと、そういうふうに説明すべきなのだろうか?

 いずれも間違っている。
 原稿の出来不出来は、原稿の出来不出来に過ぎない。われわれは、原稿みたいなテンポラリーな制作物を基準に、才能の有無みたいな、決定論的な何かを語るべきではないのだ。

 別の考え方をすべきだ。
 つまり、ある人間が良い原稿を書くためには、いくつかの条件を満たす必要があるというふうに、だ。
 良い原稿を書くためには、一定の技巧が不可欠だ。また、良いテキストには読み手を納得させるに足るアイディアが含まれていなければならない。これらとは別に、書き手の労力が費やされていなければ、文章は像を結ぶことができない。
 技巧の無い書き手は、どんなに良い話を持っていてもそれを良質のテキストとして結実させることができないし、意欲を高く保ち続けることのできない書き手は、最終的に、原稿を読める水準の作品として着地させることができない。

 私は何を言いたいのであろうか。
 説明する。
 要するに、唯一の有効な才能は「モチベーション」だという、そのことを私は言おうとしている。

 技巧は決して枯渇しない。
 技巧は、訓練によって身につけることができる。しかも、一度身につけた技巧は、ほとんどまったく失われない。
 サッカーにおける「ボールタッチ」と同じだ。
 ついでなので説明しておく。サッカーの世界では、「3つのB」ということが言われる。Bの頭文字ではじまるサッカーの三要素に相当するもの、すなわち「ボールタッチ」「ボディバランス」「ブレイン」だ。
 もう少し詳しく言うと、「ボールを扱う上での技巧」を意味する「ボールタッチ」と、「身体的なコンディションと体力」を意味する「ボディバランス」と、「ゲームを運営し、プレイを選択するアタマの良さ」を意味する「ブレイン」の3つだ。
 で、これらの三要素のうち、子供たちを対象にしたサッカースクールでは、当面「ボールタッチ」が最重要視される。というのも、ボディバランスやブレインが、年齢や状況によって劣化したり失われたりしがちな要素であるのに比べて、ひとたび身につけたボールタッチ(技巧)は死ぬまで離れないものだと考えられているからだ。

 アイディアもまた枯渇しない。
 というよりも、そもそもアイディアは「枯渇」したり「自然発生」したりするものではない。単に書き手がそれを見つける努力を傾注するかどうかの問題だ。あるいは、ここには若干「天からの授かり物」という意味での「才能」が、関わっているかもしれない。アイディアは、見える者には見えるし、見えない者には見えない。そして、アイディアを見る目を持った者の目そのものは、やはり決して「枯渇」しないのだ。

 つまり、書き手にとって唯一コントロール可能な資質は、「モチベーション」なのだ。
 このことは、モチベーションを高く保つことができれば、その人間の才能(良質の原稿を生産する能力ということ)は、決して失われないというであり、逆に、モチベーションを無くしたライターは、結局すべてを失うということでもある。

 その昔、とても面白い文章を書いていた書き手が、ある時期を境に、すっかり凡庸な物書きに変じてしまうというケースは、実は、決して珍しくない。それどころか、トリフィックな書き手のエキセントリックな文章が、10年以上そのクォリティーを維持することの方がむしろレアケースだったりする。また、デビューから三作目ぐらいまで、スリリングな傑作を書き続けていた作家が、ある時失敗作をものして以来、10年ぐらい低迷してしまうといった展開も、これまたよくある話だ。
 こういう場合、読書界の人々は「才能が枯渇した」という言い方をすることが多い。
 でも、本当のところ、枯渇しているのは、「才能」ではない。
 「技巧」が錆びたのでもない。
 「アイディア」が尽きたのでもない。
 問題は、書き手が「モチベーション」を喪失したというそこのところにある。
 書くことに慣れた書き手は、ある時期から、修業時代のような真剣さで原稿用紙に向かうことができなくなる。なんとなれば、はじめて自分の原稿が活字になった時に感じた天にも昇るような嬉しさは、二回目からは徐々に減っていくものだからだ。
 ある時期に執筆のエンジンになっていた「自分を認めない世間への怨念」も、時の経過とともに摩滅していく。
 というよりも、世間への怨念みたいなものを燃やし続けることのできる書き手がいたのだとしたら、おそらく、彼はその怨念によって身を滅ぼすことになる。
 とすれば、いずれにしても若い無名な書き手が持っていたモチベーションのうちの八割は、彼が若く無名な貧しい人間でなくなった時に、失われるべく運命づけられている。
 なんともやっかいなことだ。

 名声を獲得し、豊かな生活を享受した主人公が、若い頃に持っていたひたむきさを失うというストーリーは、スポーツの世界によくある定番の展開だが、原稿書きの世界でも、基本的な構造はそんなに違わない。
 むしろ、われわれの世界はもっと極端かもしれない。
 というのも、書き手を「先生」と呼んでおだてあげる風潮は、サッカー界や野球界より、文壇の方がより顕著であり、しかも、この世界には鬼コーチや恐い監督や、アタマの上がらない少年時代の先生みたいな存在が見あたらないからだ。原稿書きの世界で、ひとたび「先生」扱いに昇格した人間は、ほぼ無敵な存在になる。実態としては、文章を書くのが上手だという、偏頗な職人であるに過ぎないにもかかわらず、彼は「世界」を解釈する権利を獲得し、日本を叱る立場に立ち、世間に説教を垂れる存在に化けたりする。
 
 さて、冒頭に近い部分で、モチベーションないしはやる気について、出すものではなく、「出てくる」ものだという意味のことを書いた。
 
 それはその通りだ。
 とはいうものの、どうやってモチベーションが出てくるのかというと、ここには不思議な背理があずかっている。
 書くためのモチベーションは、書くことによって維持される。
 ということだ。
 モチベーションを、有限の資源みたいに思うのは、間違いだ。
 モチベーションは瓶の中の液体ではない。
 使ったらその分だけ減るというようなものではない。
 むしろ、定期的に搾乳しないと生産をやめてしまう牛の乳や、汲み出し続けないと涸れてしまう井戸みたいなものだ。

 この三ヶ月ほど働きすぎたから、モチベーションの在庫が切れたとか、そういうふうに考えるのは失敗だ。
 むしろ、モチベーションは、三ヶ月書かないことによって、枯渇する。そういうものなのだ。

 アイディアの場合は、もっと極端だ。
 ネタは、出し続けることで生まれる。
 ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
 3ヶ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
 3ヶ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。

 つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、一つのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの3つや4つは出てくるものなのだ。
 ネタは、何もせずに寝転がっている時に、天啓のようにひらめくものではない。歩いている時に唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしている時に、派生的にアイディアA'が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。

 モチベーションは、そこまで簡単なものではない。
 書けば書くほどやる気が出るのかというと、やはりそうはいかない。
 一定の量の原稿を書くと、どうしても、書いた分だけの疲労は蓄積する。
 つまり、モチベーションは、書き過ぎると、枯渇するわけだ。
 とはいえ、書かないでいると書かないことによる枯渇が訪れる。
 ダブルバインドだ。

1. 最も安定的な執筆モチベーションは、原稿を書く「習慣」そのものうちにある。つまり、毎日原稿を書くという習慣が、人をしてものを書かせているのだ。その意味で、コラムニストは、サラリーマンが毎日電車に乗ることや、主婦が毎晩夕食の支度をするのと同じように、日々の生業として、特に大げさに考えずに、粛々とテキストをタイプせねばならない。悪く言えば惰性で。

2. 一方、そうはいうものの、ルーチン化した原稿は、時に書き手の意欲を奪う。なんとなれば、先行きのわかりきった原稿は、どうにも書き起こすのが面倒なテのものだからだ。


 結論:書く時間やスケジュールや量については、習慣としてルーチン化した方が良い。
 一方、テーマについては、あまり型にハメない方が良い。と、そういうことですね。

 今回は、予告通りに、書くことができなかった。
 モチベーションそのものについての話には、ほんの少ししか触れられなかった。
 むしろ、才能や、アイディアについての話の方によりまっとうな中味があったかもしれない。
 それだけ、モチベーションはむずかしい相手だということだ。
 モチベーションと原稿の関係についての話はなんとか話すことができる。
 モチベーションの性質について書くことも、そんなに困難ではない。
 でも、肝心要の、「いかにしてモチベーションを保つか」については、結局、私はいまに至るもまるでうまい結論を見つけられずにいる。
 それが見つかっていたら、3ヶ月も延ばさずに済んでいた、と、この落とし方は、あんまり見え透いて本当はイヤだったのだが、仕方がない。だって、とってもきれいに落ちるから。

追記:今回、どうして私がこの原稿を脱稿できたのかについて書いておく。
 ミシマ社を訪問する約束ができてしまったからだ。
 状況は以下の通り。
1. ミシマ氏から電話:うわあ、ごめんなさいという感じ。
2. 今後について打ち合わせをしたい、と:だよね。当然だよね。
3. 打ち合わせのタイミングと場所について電話で話しているうちに、つい、自由が丘まで自転車を飛ばすプランに心が動く:ええ、木曜日にでも私が顔を出しますよ。はははは。
4. まさか手ぶらじゃ行けないだろ?:と、そう思うと、あらまあ不思議スラスラと書き進むではありませんか。

 そう。行き詰まったら、視点を変えみるべきなのだ。
 原稿は、自分のためにでなく、誰かのために書いた方がうまく書ける場合がある、と。
 あるいは、カネのためでもメンツや義理や生活のためにでもなく、あくまでも原稿それ自体のために、だ。
 あえてきれいな言い方をすれば、だが。

 次回の予告はしない。
 淡々と、粛々と、なにごともなかったように、毎週登場する、そういう人で、私はありたい。


ページのトップへ